星の王子さま

私は小さい頃、星の王子さまが好きではなかった。

「大人が書いた子供心の話」というのが気に食わなかった。

「大切なことを思い出す。」

「あの頃の心に戻る」

などという帯を見ると、更に嫌気がさした。

 

どうせ大人が書いたんだろ。何がわかる。と。

大人が思い出せる範囲の純粋さを敷き詰められている気がして、嘘っぽく、胡散臭く感じられていた。

「私なら、更にこう感じますけどね!」と、一人で勝負を挑んでいた。

ちょっと捻くれた私は、そういった類のものに何かと突っかかっていた。

 

伝わらない想いや、大人の理不尽さに悶々としていた私は、

そんな「搾取する大人」が子供の純粋さという蜜だけ見て、都合よく浸ろうとする姿勢に、お腹の底から湧き上がる怒りを感じていた。

 

そう、つまり私は、「星の王子さま」にではなく、

星の王子さまが好き」と言っている大人に

ムカついていたのだ。

 

星の王子さまがいい話とか、真理だとか、そうでもないだとか、

そういう土俵の話ではなかったのだ。

ただ、あの頃の私には格好の餌食だった。

 

今、パラパラと読み返し、

ああ、そういうことか。と思う自分がいる。

「いい言葉風」と思っていた言葉に、純粋に心打たれる自分がいる。

また、「これは、こういう本なんだ」と、自分の中で分類分け出来た時点で、すんなりと受け入れられるようになっている自分がいる。

きっと、読み終えた頃の私は、感動した!

だとか、染みるようになったわー。

だとか言ってるのかもしれない。

これは主に大人へ向けられた本だ!別に子供心を書こうとしていた本ではない!

とまで言っているかも。

 

ああ、大人になってしまったんだ。と思った。

 

しかし、

わかってもらわれてたまるか!

と、心の隅で角を出している自分が、まだどこかにいる。

 

ps.

星の王子さまが好きなみなさん、ごめんなさい。

これは感想文ではなく、私もまだ数ページ読み返したくらいなので、何もわかってないですからね☆

GWを過ぎてから、梅雨のことも、まだ5月であることも

全く気にかけてくれないような高気温と快晴が続いていた。

この季節の、真っ昼間の日差しが好きじゃなかった。

鬱陶しい。うるさい。自分勝手。そんなイメージ。

 

気づいたら6月になっていた。

でも、快晴だった。

湿度は高いのに快晴。

もういいよ。わかったよ。疲れたよ。

そんな気分だった。

 

そして今日、久しぶりの雨。

 

「梅雨入りしたー、やだー。」

と、電車でお姉さんが話している。

 

 

今は、布団にくるまっていることを許しておくれ。

でも、お洗濯物が溜まった頃には、また晴れてね。

おばあちゃん家の牛乳

おばあちゃん家の牛乳は甘かった。

 

我が家と同じ生協の低脂肪牛乳に

砂糖をひと匙入れて泡立てる。

 

ひんやりと冷たくて、ふかふかで、

コクのある牛乳になった。

 

おばあちゃん家のチョコレートは

魔法みたいに美味しかった。

 

どこにでもある明治の板チョコだった。

ほんのちょっとだけ食べると体にいいんだよ。と、

いつも、ひとかけらだけ、特別な秘密のお菓子のようにこっそりと渡してくれた。

 

パフェが入っているようなグラスに注がれた牛乳と、

ギザギザに割れたチョコレート。

 

家に帰って急いで同じものを作っても、

魔法は解けていた。

魔法の言葉

魔法の言葉がなくなった。

 

少し前までの私は、

気持ちも、音も、匂いも、印象も、

全て色と形になって現れていた。

 

もう少し前までの私は、

頭の中にもう一人の女の子が住んでいた。

可愛い女の子だった。幼馴染が4人いる女の子だった。バスケットボールが上手な女の子だった。髪が短くて、脚の細い女の子だった。

 

あと少し前までの私は、

魔法が使えていた。私の大切なものや、大好きな人は、その魔法で絶対的に守られていた。

 

かくかくしかじか、

たくさん曲を書いて、どうにかこうにか自分というものを割り出さなければならないと思うようになったここ最近。

魔法の言葉が使えなくなっていることに気づいた。

 

一体、私から何が消えてしまったのだろう。

 

もう、私の手の中には、実在するものしかない。

車は車。風は風。バラは赤で、ひまわりは黄色。

 

慌てて子供に戻ろうとしたが、もうあの頃には戻れない。

一生に一度しかない時間だったということに、今更やっと気づいた。

戻りたきゃ、戻れるような気がしていた。

 

心は現実を生きて、頭はネバーランドに住んでいるつもりでいたようだ。

 

なんて言ってたらさ、今この瞬間だって、一生に一度しかない時間らしい。

女盛りを逃すなよ。

かさぶたの下の皮膚

最高気温18度。いつもそれが夏の終わりの合図だった。

コットンベストから半年ぶりの長袖のカーディガンをおろす。

教室を埋める色が、眩しい純白から、一夜にして、グレーや紺やベージュ、たまにピンクのまだら模様に変わる。

後ろの席からその風景を眺める瞬間が好きだった。

 

冴えない高校生活だと思っていた。

 

気温18度。その日は必ず雨。

薄暗い昇降口。

埃が濡れて床に跡をつける上履きの底。

気になっている人が久しぶりにセーターを着ている姿を見た瞬間は、いつも胸が締め付けられた。

少し大人びて見える。

 

友達は少なかった。

高校3年になって、飾らないこと、素直でいること、心を開くことを覚えた私は、

少しだけ友達が増えた。

途端に身の回りが色鮮やかになった。性格も少しだけ明るくなった。

ありのままでいることの大切さを知った。

 

思い出す景色なんて殆ど何もないと思っていた。

青春映画のような出来事なんて、現実には起こっていない。と。

 

環状交差点で 金木犀の香りを感じる今。

思い出す風景は、高校時代のものばかりだった。

 

冬の部活帰り、すっかり夜になった海辺の駅。

到着する江ノ電は蛍光灯が眩しくて、乗っている人はどこか親しげな雰囲気になっていたこと。

病院脇の近道から眺めた江ノ島と夕暮れ。

授業をサボった日の海の灰色。

球技大会の日に売店で買ったアイスクリーム。

駅から学校までの上り坂。

短いスカートの隙間を通る風の温度で季節を測っていたこと。

石油ストーブの匂いと、必ず寝ていた古文の授業。

授業の合間に窓から校庭を眺めながらおにぎりを食べることが好きだった。

みんなのことが大好きだった。

 

ひたすら楽しかったような気さえする。

ひりつくほど心は敏感だった。

 

派手なことは何もなかった。思い出すことなんて何もないと思っていた。

それなのに風の匂い、空の色に思い出す景色は、

友達とよく遊んでいた中学時代でも、

夢を追い始めた大学時代でもなく、

悶々とした想いを毎日頭や肩に積もらせていた高校時代なのだ。

 

最高気温18度。肌寒い雨の匂い。

風邪の日に飲む薄めたポカリのような甘さ。

クレヨンのようなこっくりとした切なさ。

愛しさ。

 

かさぶたの下の皮膚の心で

雨も日差しも汗も北風も全てを浴びていた。

 

 

 

 

ベッドタウン

駅の正面改札を抜けると左右に分かれる下り坂がある。

その坂を覆うように、まるで命令されたように並ぶその木々が、桜だということを知っていたので、私はこの街に住むことに決めた。

春には一面の桜並木だ。

 

大学時代にお世話になった先輩が、この街に住んでいた。

5年前の4月、先輩から借りた重いキーボードを背負いこの駅に降りた時の景色が忘れられなかった。

滅多に来ることもない、寒々しいと感じていた街が、小粋に見えた。

 

そんなことで悪くない気がして選んだ。

(私のワガママな条件に大方合う物件が、この街にしかなかったことも大いにあるが)

 

しかし、住んでみると、初めから苦手な部分ばかりが目についた。

 

飲食店の店員さんに対して偉そうな態度をとる人が多いこの街が嫌いになった。

スーパーの野菜が、微妙に高いこの街が嫌いになった。

よくわからない、そこそこ大きな家と静かすぎる住宅街が嫌いになった。

そこによくわからない外車が飾られているときは、さらに嫌気が差す。

このまま歩き続けてもどこにも繋がらなさそうなコンクリートの道も、

洗練されていない美容室も、

8年前の流行りの服が売られている駅ビルも、

急な坂が多くてふらりと散歩するのに適さない地形も、

愚痴を言い合うおばさんが多いケンタッキーも、

蝉がうるさい目の前の有料公園も、

全部好きじゃなかった。

 

何よりも、海辺で育った私は、

空気の抜けない空が苦手だった。

「何もない中にある、ひっそりとした上品さと華やかさ」みたいなものが全くないところも。

 

そんな風に感じながら生活していると、自然と微笑みが減っていることに気づいた。

これはまずい。

何より、自分で選んで、お金を出し住んだ街の文句ばかり言うのは、とてもカッコ悪い。街からしたら、お前が来たんじゃないか。という話だし、私は、自分で選んだものや身の回りの環境、持ち物の愚痴ばかり言う人を、割とカッコ悪いと感じる。

そんなカッコ悪い人間に自分がなっている。

薄々気づいていたが、もう十分それだ。

愚痴を言うたびに心は削られ、表情も声もガサガサだ。

 

とはいえ、急に好きにはなれない。

好きになる努力自体、一朝一夕で身につくわけではない。

 

この文章に感動的な終わりはないのでご注意ください。

 

ただ、先日、作曲に煮詰まり自分のことも分からなくなった22時、

アイスクリームを買いに出たときのこと。

雨上がりのひんやりとした夜風がとても心地よかった。

ふと街灯を見上げると、ランタンのような西洋風のガラスの傘がついた街灯であることに初めて気づき、なんだか可愛らしくて可笑しかった。

洗練されていない美容室では、掃除をしながら談笑する年の離れた美容師さん達の姿があった。

下り坂の途中にあるクリエイトでは垢抜けない大学生の男の子5人くらいが、コンドーム売り場で10分以上議論していて、もはや微笑ましかった。

(あ、これ日本製だ。え、これも日本製だ。全部日本製だ!と感動していた)

20%オフの菓子パンを選んでいるおじいちゃんはムスっとしていたけど、私が覗いたら少しずれて一緒に選べるようにしてくれたし、クリエイトのピノは98円で安かった。

この街に唯一あるキャバクラの客引きのお兄さんは、全く怖くないし、

帰りに寄ったマイバスケットは相変わらずやる気がなくて薄暗くて居心地がよく、

家の近くにある行列のできるラーメン屋さんは、今夜も静かに仕込みをしていた。

何だろう。当たり前だし、特に優しいわけでもないかもしれない光景が、その夜は親しく感じられたのだ。

 

こんな感じでいいのかもしれない。と思った。

 

無理に好きになろうとするとお腹が痛くなるけど、

何となく可愛らしく思えたり、可笑しく思えたりするものに気づいていけたらいいのかもしれない。

 

そんなことを思っていたら、

一昨日、窓の外からドーン、ドーンという爆発音が聞こえた。

あまりに続くのでベランダに出てみたら、

夕空の遠い遠い向こう側に、頭半分の花火が見えた。

 

マンションの下の道を歩くおじいさんも同じ方向を見て立ち止まり、

おお、見えるな。と小さく呟いていた。

 

嬉しくなって声を掛けようかと思ったが、

少し距離があったので躊躇い、静かに眺めることにした。

 

まだ珊瑚色の残る空だった。

 

この部屋を選んで良かったと初めて感じた。